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『八日目の蝉』とアイデンティティ

こないだ久しぶりに『八日目の蝉』を見た。多分二回目かな。思ったことをとりあえず書き散らしとく。レポート口調になるけど。まとまってないけど。

 

この物語は、ある夫妻のもとに生まれた赤ちゃんが、夫の愛人によって誘拐されるところから始まる。その愛人は、赤ちゃんを自分の流産した子どもと重ねて大切に育てる。

子どもが四歳のとき、ついに警察の手が及び、子どもは元の夫妻のところに返される。しかし子どもは誘拐犯を実の母親だと思い込んでいる。子どもが戻っても、「普通の幸せな家庭」の姿は戻らない。

物語後半では、成長したその子ども自身も、妻子のいる相手との赤ちゃんを身ごもる。しかし自分を誘拐した人物と同じ道を辿ることはなく、その子を生む決意を固める。

 

 

この物語が面白いのは、私の好きな「アイデンティティ」の問題を考察できるから。

 

「秋山恵理菜」として生まれ、0歳から4歳を「薫(宮田薫)」として育ち、その後また「秋山恵理菜」としての人生を送る主人公。4歳まで育ててくれた「ママ」は、その後の人生では全てを崩壊させた「元凶」として扱われている。

4歳まで形成してきた「薫」としての自我は奪われ、代わりに「恵理菜」というフレームを与えられる。本来であれば、「恵理菜」として生まれ「恵理菜」として育ち、その中で、自己同一性(アイデンティティ)が形成されるものである。ところがこの「恵理菜」という存在は、彼女にしてみれば取って付けられたようなもので、ルーツがない。

 

宮田薫/秋山恵理菜という名前以外にも、彼女のアイデンティティ形成を阻む要因はたくさんある。まず「薫」時代だけでも、「自分が何者か」というのを一貫して築くのは難しいだろう。

一に言語。関西弁を話す環境で育てられたあとは、四国の島の方言を話すようになり、最終的には「恵理菜」として標準語を話すようになる。これと関連して、二に土地。関西、四国、関東。ひとつの地に長く留まっていない。

三に宗教。関西ではエンジェルホームというキリスト教の地で育てられたが、四国では寺に行くなど、仏教に親しむ様子も見られる。そしてやはり、四に名前。先ほど挙げた薫/恵理菜以外にも、エンジェルホームでは「リベカ」と呼ばれている。これに加えて、五つ目として挙げてもよいが、「母」という存在すらも変わっている。

 

さらに言うならば、「薫」時代に過ごしたエンジェルホームは、彼女のルーツにおける大部分を占めているわけだが、そもそもここで「何者でもない」者として、生活を送っている。

エンジェルホームでよく語られた言葉、「こだわりを手放す」「魂で話をする」。この「こだわり」というのは、男女の区別であったり、どこから来たのかであったり、自分を形成するありとあらゆる「枠組み」を指す。実際に希和子が薫を連れてエンジェルホームを訪れたとき、エンゼルは「あんたは何者や、自分で自分を何者や思う」という質問を投げかけ、希和子に「何者でもありません」という答えを求めている。

ただ、やはりエンジェルホームに来る大人たちは、すでに築き上げたアイデンティティがあるので、それを手放すのは容易ではない。男女の区別というものが明確にある。四国の島で、希和子が薫と話すときに、「女が好きになるのは男、女の結婚相手は男」というようなことを述べている。

一方、子どもはアイデンティティ形成過程にあり、赤ちゃんはアイデンティティがゼロの状態である。「こだわり」がない状態である。だからこそ「赤ちゃんはエンジェルホームの宝」として語られている。上に述べた希和子と薫の会話においても、薫には「男女」という区別がないので、「女の結婚相手が男」だという認識もない。

 

 

このように、「薫/恵理菜」には根本のルーツとして確立されたものがない。よくわからないまま、自分が誰かわからないまま、とりあえず「秋山恵理菜」として年月が流れていく。

岸田と不倫関係になった彼女だが、彼について「岸田さんが初めてのこと色々教えてくれた」ということを語っている。これは「家族」という枠組みを離れて、初めてひとりの人間として、他人と関係を築けたというのが大きいと思う。幼い頃にわからなかった「男女」の区別を、ここで知ったというのもあると思う。

 

それから、千草と出会うことによって、自分のアイデンティティを取り戻し始める。取り戻すというより、再構築に近いかもしれない。

自分のことについて、あの誘拐事件について書きたいという千草。千草が、誘拐事件の資料を渡してきたり、四国の島へ連れ出したりする。千草を通じて、自分のルーツと向き合う恵理菜。つまりここで、「恵理菜」が「薫」に出会い、二人が一人へと、同一性を形成していくことになる。

四国の島で訪れた写真館の店主が、写真撮影をした人物のことを、名前でなく顔で覚えているというのも、これに寄与している。名前というラベルが変わっても、中身・実体は変わらない。だから、名前を聞くのではなく顔を見て昔の写真を出してくれるというのは、「恵理菜」である今の自分と、「薫」であった昔の自分が、同じ人間なのだという証拠と同じである。

 

そして千草自身もエンジェルホームにいた人間であると、リベカと仲のよかったマロンという子どもだったと打ち明ける。千草にとっても、恵理菜との交流は自身のルーツと向き合うことになったのだと思う。

男が怖いという千草。でも恵理菜と一緒に、母親にならなれると言う。このあたりにも、エンジェルホームの子どもたちには、「異性婚」が絶対という概念がないように思える。

 

一番大きな「アイデンティティ形成」は、「母になる」ということだと思う。自分自身のルーツを奪われて育った彼女が、新しい命の誕生とともに、「アイデンティティ形成」の過程に携わることになるのだ。

それとともに、自分自身にもその子の「母」としてのアイデンティティが与えられることになる。これはまったく新たに付与されるフレームであり、自分がゼロから築いていくことのできるアイデンティティである。「薫」にも「恵理菜」にもなりきれなかった自分だが、「母」にはなれる。

だからこそ、彼女は中絶を選ばなかった。このアイデンティティを奪われれば、彼女は本当に「何者にもなれない」から。恵津子が希和子に言ったという、「堕ろすなんて信じられない。あんたは空っぽのがらんどう」。これが恵理菜に強く響いたのは、身をもってそのことを実感していたから。「私、空っぽになんかなりたくない」という言葉には、まさにそれが表れている。

 

「憎みたくなかった」というセリフには、「薫」という自分も、「恵理菜」という自分も、どちらも否定したくなかった、無かったものにしたくなかった、ということだろう。どちらも自分の一部であり、消せるものではない。

そしてお腹のなかにいる自分の子について、「顔も見てないのにもうこの子が好きだ」と言って、物語が終わる。これもまた、その子を嫌うことは自分の「母」というアイデンティティを否定することと同じだから、という捉え方ができる。

ただ、もっと大きなものとして、これは彼女が初めて見せる「人間らしさ」と言っていいように思える。四国の島で「薫」と「恵理菜」が出会い、連続したアイデンティティを再構築する過程で、彼女は初めてひとりの人間としての自己を獲得する。そこで涙を流したり、愛情を覚えたり、人としての感情を芽生えさせる。そこからこぼれた言葉なのだろうと思う。

 

 

タイトルの「八日目の蝉」について。

蝉は長いあいだ地中で過ごすのに、地上に出て、たったの七日で死んでしまう。これについて、恵理菜は「もし八日生きる蝉がいたら、他の蝉がみんな死んでしまって置いていかれて悲しいから、七日のほうがいい」というようなことを語っていた。しかし後に千草が、「八日目の蝉は他の蝉に見られなかった何かを見られるかもしれない、それはとても美しいものかもしれない」と語る。

長いあいだ地中で過ごす期間というのは、アイデンティティ形成の期間のことで、そのあとに一人の人間として、社会という外界に飛び立っていくということかなと考えた。でも「他の蝉に見られなかった美しい何か」というのは、お腹の子どものことじゃないだろうかと思うと、少し考察にずれが出てくる。「普通の生き方では見られないものが見られる」という考え方だと、それなりに辻褄は合うけど。

 

少し解釈を変えると、七日よりも八日のほうが期間が長いわけで、たどる道のりが長いわけで、それってつまり、普通の人の人生よりも回り道をしてるってことなのかな。そう考えると、もっとしっくり来る。

恵理菜の人生は回り道をしている。自分が何者かもわからず、周りとも馴染めず。つまりは周りの環境に置いていかれているわけで。普通の人の人生、「七日間の蝉」のペースは、恵理菜には早すぎる。

でも、だからこそ、最後に四国の島で美しいものに出会えた。自分が失っていたもの。ただの綺麗な景色というだけでなく、自分の原点に返ることができた。戻るべき場所があった。そこから築ける、新たな人生と命とともに。

 

そういう意味で、回り道をした彼女は「八日目の蝉」なのかな。でもこのあたりは正直、自分でもまだ釈然としてはいない。考察が足りてないので、次に見るときはこの意味をもっと考えながら見てみようと思う。終わり。