Junks and Toothpaste

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カズオ・イシグロ 文学白熱教室

「知る」ということは、とても大事なこと。「知識」は力になる、「知識」は世界を広げてくれる。

 

カズオ・イシグロのことは少し知っていたけど、本を読んだことはない。ノーベル賞を取ってからも、それほど興味を持たなかった。

でも、たまたま「文学白熱教室」を観た。小説に対する考え方とかについて話してて。すごく面白かった。それで、この人の本を読みたいと初めて思った。

 

やっぱり私は、自分が知ったもの、自分から興味を持ったものにしか、手を出せない。

みんなそういうものなのかもしれないけど。例えば「有名だから」「賞を取ったから」とかで、「読みたい」と思うことがあまりない。音楽にしても、友達に紹介してもらったものより、自分で見つけたもののほうが長く好きだったり。

「直接知る」まで、なんとなく、他の世界のもののように感じるものも多い。例えば海外の人とか国とか。実際に自分で触れ合うまで、興味の持てないものって沢山ある。

 

だから今回、たまたまカズオ・イシグロの講演をテレビで観る機会があったのはとても嬉しいなあと思う。自分への誕生日プレゼントは本に決めた。

 

 

話は白熱教室に戻るけど。

小説家は、「テーマ」や「メッセージ」を元に物語を作り上げていく。対して文学研究は、できあがった物語から、その「テーマ」や「メッセージ」を掘り起こしていく作業になる。

じゃあなぜ、そのままメッセージを伝えないのか。なぜ「物語」を介するのか。って話になるけど。それこそ、講演の中で語られてた「なぜ小説を読むのか」って話に繋がると思っている。

 

個人的に一番面白かったのは、小説というのは unreliable「信頼できない」ものであるということ。人の語りというのは、記憶というのは、おぼろげで消えていくもので、そこには確実性がないことも多い。忘れられたものも多い。書き違えられている部分も多い。そういったテクスチャーが、小説にはあると。

(一方で映画というのはすべて可視化されていて、all clear、そういった unreliable なテクスチャーは失われる、ということも語られていた。まさにその通りだと思う。映画は映画でいいところがあるけれど、「想像の余地」は奪われる。)

 

だから、小説は読み手の解釈に委ねられる部分が多い。つまり、文学研究においても、ひとつの作品からひとつのメッセージだけが掘り起こされるわけではない。読み手の解釈によって、あらゆる論が導き出されうる。

あるいは、掘り起こされたのがひとつのメッセージだとして、それに対するアプローチも千差万別ではないかと思う。どこからそのメッセージにたどり着いたのか。それは人によって違っていて当然のこと。

 

ただ、講演中では、どれだけ「真実」を残すか、どこまで「フィクション」を作り上げていいのか、ということも語られていた。小説というのが、記憶の媒体になることも多いので。物語にある姿で、歴史が記憶される場合もあると。だからそこにはある程度、小説家が責任を負うべき部分もあるかもしれないと。

私が大学で文学を勉強していたときは(と偉そうに言えるほどのことはしていなくて、少し齧っただけだけど)、自分が小説の解釈を「間違える」のが怖かった。どう読み解けばいいのか。それは文学研究をしようとする人なら、誰でも感じるものかもしれない。

 

ただ、さっきも言ったように、小説は読み手の解釈によるところも多いので。もちろんまったく的外れな解釈をしてしまうのはよくないけれど、メッセージのやりとりというのは、小説家と読み手(文学者)の、ある意味「協働作業」なのだなと感じた。

 

 

「いつ忘れるか」「いつ思い出すか」という話も面白かった。失われた記憶を取り戻すべきかどうか。これに関しては早く The Buried Giant を読みたい。

あと、たった数文のアイデアやメッセージを、小説へと拡大していくというのも。結局その根底にあるメッセージというものが大事で、舞台設定はどこにでもなりうるという。それってすごく面白かった。文学を研究するときって、舞台設定から推察する部分も沢山あったりするので。でも個人的には、最終的に舞台設定を決めるときには、やっぱり「そこ」じゃないと、っていう何かがあってそうなるんじゃないかなとも思う。

 

 

とりあえず早く本を読みたい。村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでいるけど、なかなかページが進まない。面白いけど、まだ没頭しきってないというかね。