Junks and Toothpaste

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「書く側」から「読まれる側」へ

川辺車輛『虚蝉』を読んだ。

 

一人称の作品において、特にそれが著者自身を指す場合、「実際に物語を紡いでいるのは誰なのか」という問題が浮かぶ。より正確に言えば、「語り手は著者なのか、それとも主人公なのか」という問題である。

 

「どちらでもある」というのが一つの回答かもしれないが、本当にそうだろうか。少なくとも私が小学生の頃に親しんだ『ダレン・シャン』は、著者ダレン・シャン自身が主人公ではあったが、私にはあの作品がノンフィクションだとは到底思えない。

つまり作品中の「ダレン・シャン」は、私にとっては実在する「著者」ではなく、あくまで物語中の「キャラクター」でしかない。私にとって、両者は別個の存在である。

 

このように、物語の「著者」と「主人公」が同一人物である場合でも、物語というフィールドにおいては、二者が別々の存在となりうる。彼らを乖離させるものは何だろうか。

それは「読み手」の存在である。「キャラクター」に、ひいては「物語」に最終的に命を与えるのは、それを「読む」側の仕事である。先ほどの例でいえば、著者のダレン・シャンと主人公のダレン・シャンを乖離させたのは、読み手である私自身なのだ。

 

『虚蝉』において、「わたし」はどこまで純粋な「著者」だったのだろうか。いつまで「まじりけのないわたし」であっただろうか。いつまで「わたしであるところのわたし」でいられたのだろうか。

彼自身はこれを「小説」とは捉えていなかったので、「著者」というのはいささか違和感があるかもしれない。「書き手」というほうがしっくりくるだろうか。

 

彼の記した言葉が誰かに読まれるまでは、原稿用紙の中の「わたし」は、純粋に「書き手」としての「わたし」である。しかしひとたび読者を獲得すれば、書き手が自分自身として記した「わたし」は、彼の手元を離れて、独立したキャラクターとしての「わたし」になる。

書き手としての「わたし」と、キャラクターとしての「わたし」。両者は同一人物でありながら、二つの個別の存在として成り立つことになる。

 

作品中で拳銃が登場した際、彼は「これは小説ではないから弾が放たれる必要はない」と述べた。しかし「わたし」が「キャラクター」として成立し、読み手が(少なくとも読み手の一人である私が)この作品をフィクションだと認識したことで、彼の原稿用紙は「小説」となってしまった。そして結果的に弾は放たれることとなった。

そもそもはフィクションではなかったのかもしれない。現実だったのかもしれない。しかしそう考えたとき、私たちが存在する今のこの現実世界も、「虚構ではない」と誰が断定できるだろうか。私たち自身が「キャラクター」ではないと、誰に言い切れるだろうか。

 

それでも私たちにとって、この世界はれっきとした「現実」であり、「虚構」ではない。なぜなら私たちには「読み手」がいないからだ。あるいは少なくとも、私たちはその存在を知らない。

その点で言えば、作品中のキャラクターが「自分はキャラクターである」と認識することは、つまり「読み手」の存在を把握しているということになる。

 

先ほど私は「『キャラクター』に、ひいては『物語』に最終的に命を与えるのは、それを『読む』側の仕事である」と述べた。読者である私自身こそが、キャラクターとしての「わたし」を生み、書き手としての「わたし」から乖離させたのだと述べた。

しかし、両者に乖離が生まれるのは、もうひとつパターンがある。それは書き手である「わたし」自身が読み手の存在を意識しており、「わたし」がいずれ読まれるということを知っている場合だ。つまり書き手の「わたし」が潜在的読者を生み出し、その潜在的読者によって、キャラクターとしての「わたし」が成立したということだ。

 

作品が進んでいくにつれ、書き手の「わたし」はこの「潜在的読者」の存在をより強く意識するようになる。それに伴い、キャラクターとしての「わたし」は存在感を増していく。そしてキャラクターとしての「わたし」は、書き手としての「わたし」を侵食していく。「わたし」は、自分が書き手なのかキャラクターなのかを区別することができなくなっていく。

それと同時に、それまで彼を「純粋なわたし」たらしめていた「歪み」は消滅し、「澱み」はすべて原稿用紙へと漏れ出していく。思考が原稿用紙に反映されるまでの時間的な「歪み」。綴られることなく蒸発して消えるはずの思考の「澱み」。

彼が筆を(ペンを)とるまでもなく、思考はすべて瞬時に原稿用紙上に現れる。「わたし」はもう、「純粋なわたし」ではない。「文章がわたしを支配している」。

 

書き手の「わたし」はキャラクターとしての「わたし」へと吸収され、物語を紡ぐ役割は、より大きな、見えない「著者」の手へと移っていくことになる。

この著者は、つまりこの作品を生み出した「川辺車輛」ということになるのだろう。そして、書き手であったはずの「わたし」は、そもそも最初から「キャラクター」でしかなかったのだ。

「なぜこの文章はわたしを描写するのか」。その理由は、「あなた」が「わたし」というキャラクターであるからに他ならない。「書き手」の役割は「あなた」の手元を離れ、「著者」である川辺車輛への元へと戻されたのだ。

 

(さらに言うなれば、著者の川辺車輛もまた、作品中の「編集者」というキャラクターである。彼のつけた注釈も作品の一部であり、彼自身もまた「わたし」である。物語中の「川辺車輛」と著者の「川辺車輛」は果たして同一人物だろうか。)

 

「わたし」が書き手でなくなった以上、「わたし」は「わたし」について書くことはできない。キャラクターとしての「わたし」の存在も、そこで終わりとなる。物語は終わり、本は閉じられる。

しかし、物語のなかで「わたし」たちは生き続ける。別の誰かに読まれ、両者はいつかまた出会う。

 

*****

 

ひとつだけ、どうしても分からないことがある。「わたし」が叫んでいる「愛」とは何なのか。なぜ「愛」を叫んでいるのか。代名詞の I (アイ)、つまり「わたし」かと思ったりしたが、そんなダジャレで済むような気はしないのだが。

 

キャラクターの「わたし」から、書き手の「わたし」へ叫ばれる愛。自分を生み出してくれたことに対する感謝の愛なのか。それとも自己愛なのか。かと思いきや、「対象のない愛を」「理由もなく、虚ろに響き続けるだけの愛を」とある。

 

「わたしが叫ぶ愛は、わたしのものなのですか。/ いいえ。/ わたしは愛を求めていいのですか。/ 求めています。」

 

「クローン羊は代名詞の夢を見る。」クローン羊は I (アイ) の夢を見る?

「クローン羊は人工知能の夢を見る。」クローン羊は AI (アイ) の夢を見る?

 

「わたし」は「わたし」のクローン。クローンの「わたし」は「愛」の夢を見る?

「具現化することを望まれる夢」を見る?

 

人間は羊の夢を見る。では人造人間は人造羊の夢を見るか。

人間は愛を持つ。では虚構の人間は虚構の愛を持つか。

虚構の人間は虚構の愛しか持つことができないのか。

「わたし」が叫ぶ愛は、求める愛は、「わたし」のものなのか、著者のものなのか。

 

愛を、I を、「わたし」を求める。ここにきて。ここにいて。

具現化することを望まれる I の夢。「わたし」の具現化?

 

わからない。

 

*****

 

考察とは関係がないが、個人的に作品中で一番好きだった部分を以下に引用する。

 

「わたしはなんのこだわりもないくせに体温調節すらたまに失敗している。お洒落は我慢だという。我慢だけはしている。」

 

わかる。